FC2ブログ
ひろしま歴史街道散策くらぶ
5月定例会報告<2015.5.21>
○ひろしま歴史街道散策くらぶ:5月定例会報告 平成27年5月21日(木)


(写真は川坂から権現神社の杜・窓ヶ山を望む)

1.日時 平成27年5月21日(木)
・講演会:10時から、
・散策会:13時30分から


2.会場 広島市中央公民館
・所在:広島市中区西白鳥町24-36  ・TeL:082-221-5943


大きな地図で見る■←クリックで拡大検索できます。(GoogleMap)


3.費用 参加費:500円/一人

4. 内容
○講演会:「近世社会と広島藩領」
・講演会開始時間:10時00分から 
・講演内容
:「②江戸とはどんな地域:徳川幕府が開かれた城下町「江戸」の縄張と街並を再考」

織田信長や豊臣秀吉等よって導入された西洋文化は、重農主義から重商主義へと変遷を遂げ、近世への口火となったキリスト教はカトリックを主体としていました。

近代に至りプロテスタンティズムの考え方が資本主義を助長し、西洋に習い専制体制を操る明治政権が起こり、近世は武家政権の最後の一幕といえます。

徳川家康は墨田川下流に幕府を置き江戸としましたが、当初は低湿地が広がる一寒村に過ぎませんでした。江戸は一般の城下町とは異なり「の」の字型に設計されており、慶長~寛永年間(1596~1644)には、総町数は約300町でしたが、明暦の大火後に新たな都市計画が行われ、延享年間(1744~1747)には、1678町となり、巻貝の成長のように渦巻き型に拡大を続けました。

大江戸といわれる範囲は一般に町奉行の支配範囲と理解されますが、時期や幕府部局によって異なっていました。文政元年(1818)には絵図面に朱線を引き御府内の範囲を確定し、初めて設定された江戸の範囲は、現在の都営地下鉄大江戸線のルートとほぼ一致します。江戸の町は平山城であったため、複雑な地形が大火から城下は守られ、全国から様々な人物・物資・文化が集まり、世界最大の城下町へと発展を遂げたのです。

明治元年(1868)に江戸は東京になりましたが、現在でも日本の各地には「小江戸」と称し、江戸情緒や日本人の原風景を見ることができます。


○散策会:「都志見往来と八幡川流域」  天候:晴れ
・集合場所:「JR五日市駅北口」 ※集合後広電バスで移動


散策経路・詳細

「散策経路・詳細」■←クリックで拡大検索できます。(GoogleMap)


・散策出発地「八幡学校バス停前」  
・散策経路
:「八幡学校バス停~影面の道~川坂・広島綿糸紡績工場跡~
~ 正覚寺~寺田井手~八幡公民館」


:散策内容

県道41号沿いの八幡学校バス停前を14時に出発し、水路と併走する古代山陽道=影面の道に入り、人とは別に駅馬の通る道は旧県道辺りにあったようです。

五輪塔の残る深入城跡入口・寺田浄水場跡を過ぎ、立派な社殿の宝神社の跡地は駐車場でした。岡岷山が通った都志見往来と影面の道は並走し、八幡川沿いの県道手前は寺田村、川向こうは利松村で、徒歩(かち)渡しがありました。都志見往来に入り東迫配水池跡・北原地蔵・北原浄水場跡・城六川水管橋を経て岡田美孝さん宅に伺いました。川坂の町は広島綿糸紡績工場で賑わい、五日市駅は工場のために新設されました。

河内地区散策案内板を過ぎ川下へ向かうと、新宮神社跡・鈴が峰(別名八幡富士)や、鬼ヶ城・宮尾城跡が望めました。井手の水番所と思われる家脇には、寺田井出=五日市用水路が今も残っています。深入城の本丸跡を望む三和橋辺りと、三和中学校庭となった丸子山跡の裏を影面の道は通っていたそうです。

廿日市と古市を結ぶ沼田郡往来に沿い、会所寄贈の碑・法専寺跡が続き、正覚寺には室町様式の阿弥陀如来や樹齢300年の老松があり、目前は佐伯郡家の跡と思われます。八幡川舟運の最上流の荷揚げ場の郡橋辺りから八幡神社を遥拝し、五日市用水が併走する都志見往来と沼田往来の分岐を過ぎ、原民喜疎開地・縁側付の寺地会館・八幡川酒造・芝居小屋公聚館跡を経て、17時に八幡公民館前に到着し無事散策を終え解散しました。


○案内人:佐々木卓也 指南役

5. 備考
開催状況 講演会:25名 散策会:20名
交流会   解散後に五日市駅北口近辺にて7名(内女性3名)参加で親睦会を行いました。
配布資料 「近代社会と広島藩領」②江戸とはどんな地域:3枚 当日散策資料:2枚※
※「やはた歴史探訪くらぶ」作成散策冊子:2部
以上


興味をもたれた方、詳しく知りたい方は下記の「連絡先」から
記載されているメール・電話番号へ、お気軽にご相談ください。

←こちらをクリックで連絡先へ移動します。 
---------------------------------------------------------------------
スポンサーサイト
4月定例会報告
○ひろしま歴史街道散策くらぶ:4月定例会報告 平成27年4月16日(木)



1.日時 平成27年4月16日(木)
・講演会:10時から、
・散策会:13時45分から


2.会場 広島市中央公民館
・所在:広島市中区西白鳥町24-36  ・TeL:082-221-5943


大きな地図で見る■←クリックで拡大検索できます。(GoogleMap)


3.費用 参加費:500円/一人

4. 内容
○講演会:「近世社会と広島藩領」
・講演会開始時間:10時00分から 
・講演内容:「①近世とはどんな時代:織豊から徳川へ日本社会は如何に変貌を遂げたのか」


講演会開催前に本年度定例総会が行われ、中野頭取より活動報告と会計報告がありました。
 
大略の時代区分の説明があり、
①「古代」主権者:天皇=公地公民制、②「中世」主権者:武士=荘園領主制、③「近世」主権者:武士=大名領国制、④「近代」主権者:市民=立憲君主制、⑤「現代」主権者:市民=主権在民制と変化しました。

近世の嚆矢は、織田信長の統一事業(天下布武)が行われた頃から、江戸時代末期の化政(文化・文政期:18C末~19C初)文化が花開いた頃までのことです。

戦国期の大名領国制とは、中世の守護大名や戦国大名等による領国支配体制を指し、近世の幕藩体制は大名領国制の延長上にあるといわれています。近世始めの織田政権による統一事業は、室町幕府の滅亡と戦国時代の終結であり、豊臣政権の統一政策へと続き、更に慶長8年(1603)征夷大将軍に任官した徳川家康による江戸幕府の開設につながっていきます。

幕府が260余りの武家大名と主従関係を結び、藩を担う諸大名を統率するという制度は、1600年代後半までに確立されました。これらの支配体制を一般に「幕藩体制」と呼んでいます。幕藩体制の終結は慶応3年(1867)の「大政奉還」「王権復古」、同4年=明治元年(1868)の「江戸城無血開城」「明治天皇即位」等諸説が論じられています。徳川将軍家が実質的に日本を支配した260年余りの期間を、一般に地名から「江戸時代」と呼ばれ、鎌倉幕府および室町幕府に続く、最後の武家政権で終末期を「幕末」と呼びます。


○散策会:「戸坂地区の山麓古道」  ※雨天決行
・集合場所:「JR芸備線戸坂駅」
・集合時間:13時45分




・ 集合場所:「JR芸備線戸坂駅」■←クリックで拡大検索できます。(GoogleMap)


・散策出発地「JR芸備線戸坂駅」
・散策経路
:「龍泉寺~禅昌寺~三宅神社~戸坂公民館~桜御前神社~狐瓜木神社~自在坂神社~国宝不動院 」


・解散場所:「アストラムライン不動院前駅」 ■←クリックで拡大検索できます。(GoogleMap)
:散策内容
定刻より少し遅れ花曇りのJR戸坂駅を出発し、駅北の山の手にある原神社に参拝し重氏稲荷神社に参拝しました。山辺の旧道を南へ進み、元は広島市薬研堀にあり戦後当地に移った曹洞宗の禅昌寺に到着し、本堂にて礼拝し絵画や工芸品の展示会を拝見しました。

坂道を上下し山道を通り三宅神社に着き参拝し、正面の石段を下り記念撮影となりました。JR芸備線のガード下を潜り、三宅神社参道の常夜灯を見つつ、古代山陽道の一部を通り戸坂公民館に着き休憩しました。

現在は公民館前にある元は山根の地にあった「札場の石」を見て、桜御前神社に向かい名残の桜に包まれ参拝しました。急斜面の石段を登り、永観2年(984)創建の狐瓜木(くるめぎ)神社に参拝しました。

太田川に沿いを南に下り、皇子神社を左手にみて牛田に入り、比治山大学入口の坂を上り自在坂神社に参りました。参拝の後に急坂を下り、国宝の金堂初め国重文を多く遺す不動院にてこれらの文化財を拝観しました。不動院は武田氏の菩提寺でしたが、武田氏滅亡後は毛利氏の庇護を受け、名僧恵瓊が住職となり今も遺る文化財を造営しました。

毛利氏が萩移封後は福島正則や浅野家の庇護を受け、臨済宗から真言宗となり本尊不動明王に因み不動院となりました。不動院境内や墓地を散策し、17時30分アストラムライン不動院前駅に到着し無事解散しました。

○案内人:佐々木卓也 指南役

5. 備考 
:開催状況 講演会:20名  散策会:15名
:配布資料「幕末動乱と明治維新」③大政奉還と明治政府:5枚組 当日散策地図:2枚組
:特記事項 解散後に広島駅南口にて11名(内女性4名)で、恒例の親睦会を行いました。
以上


興味をもたれた方、詳しく知りたい方は下記の「連絡先」から
記載されているメール・電話番号へ、お気軽にご相談ください。

←こちらをクリックで連絡先へ移動します。 
---------------------------------------------------------------------