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ひろしま歴史街道散策くらぶ
2月定例会報告<2016.2.18>
○ひろしま歴史街道散策くらぶ:2月定例会報告 平成28年2月18日(木)


(写真は永慶寺橋から物見山・弥山を望む)
1.日時: 平成28年2月18日(木)
・講演会:10時00分~11時45分
・散策会:13時45分~17時00分


2.会場 広島市中央公民館
・所在:広島市中区西白鳥町24-36  ・TeL:082-221-5943


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3.費用 参加費:500円/一人

4. 内容
○講演会:テーマ「近世社会と広島藩領」:⑪新田開発と水陸交易
:広島藩政を維持するため藩内各所に新田開発が行われやがて幕末へと至る内陸交通と内海航路の発展を解説
・開始時間:10時00分
 

・講演内容
 今月は広島藩領の新田開発による耕地の拡大について、干拓年代と各新開地の郡名毎の新開高や改出高等をデータで示され、分かり易い解説を受けました。

 新田とは本田に対する呼び名で耕地拡大そのものであり、広島藩では新田(開)と福山藩では新涯と萩藩では開作と呼ばれ、新田開発の中心は各藩の国益政策から町人地主や豪農地主が主体となる干拓も増え、新開地には幾つかの名を残しています。潤沢な水は新田には不可欠で、明和5年(1768)に完成した「定用水」(八木用水)は、総延長4里で用水による灌漑面積は約230町歩にも及びました。

 中世瀬戸内海交易は東の堺と西の博多を結び、室町初期に兵庫北関では東大寺領で升米置石を、南関では興福寺領で商船目録を徴収されました。内海航路の整備と共に近世瀬戸内塩業は、揚浜→入浜→流下と形式変化しながら発達し、安い輸入塩に押され塩田が廃業され、その後地は綿作→麦・芋→米作と変化しました。


○散策会:「西国街道と間宿大野」  天候:晴
・集合場所:「JR山陽本線大野浦駅」
・集合時間:13時45分
・解散場所「広電宮島口駅」

散策経路・詳細

「散策経路・詳細」■←クリックで拡大検索できます。(GoogleMap)


・散策出発地「JR山陽本線大野浦駅」  
・散策経路
:「塩屋一里塚跡~千人塚~大頭神社~妹背滝~西教寺~陣場跡~
                             ~高庭駅家跡~大野市民センター 」

:散策内容
 JR大野浦駅に集合し、NPO法人おおのの風が作成したおおの散策マップを片手に、「いにしえの西国路こもれびルート」を散策しました。大野浦駅前に建つ塩屋一里塚は広島より6里を示し、並び建つ今川貞世の歌碑には九州へ下行する際の『道ゆきぶり』の歌が刻まれ駅名の起源にもなっていました。

 大野での伝説や厳島合戦と門山城の経緯などを聴き、第二次長州戦争で多くの無名戦死者を葬った千人塚や、風光明媚な景勝地と知られて妹背の滝と大頭神社へ参りました。厳島神社の摂社として創祀された古社で、「四鳥の別れ」の特殊神事が知られています。当日の名瀑は水量豊富で、雌瀧も雄瀧も上流から勢い溢れ流れは壮観でした。

 長州戦争で幕府方の本陣が置かれた西教寺に参り、大野間宿跡や幕軍陣場跡を経て、大野では最古の高畑の溜池を横手に、木漏れ日の道を抜け高庭駅家跡に到着しました。古代山陽道の駅家所在地とされ、長旅の途中若くして逝った大伴熊凝を悼み、筑前国司山上憶良の万葉歌碑が建ちます。後の『延喜式』には濃唹駅と『倭名類聚抄』では口替濃郷とあり、大野の地名の起源となりました。

大野市民センターにて休憩し、ハートバスで広電宮島口駅に到着し、散策会は無事終了しました。


○解散時間17時00分
〇解散場所「広電宮島口駅」
○講師・案内 佐々木卓也指南役

5.開催状況 講演会:24名 散策会:17名
6.配布資料 「近世社会と広島藩領」4枚組  「散策地図」4枚組 「大頭神社」由緒書1枚

7.特記事項 散策後宮島口の食事処にて参加者8名(女性3名)で親睦交流会を行いました。
以上


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