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ひろしま歴史街道散策くらぶ
5月散策ルート

「ひろしま歴史街道散策くらぶ」で、2019516日に歩いたルートです。

 

*散策テーマ 「西国街道と城下新町組」

好天に恵まれ福屋八丁堀本店前に集合し、西国街道を東に向けて城下新町組を旧町名の町筋を散策しました。綺麗になった新天地紅桃花稲荷大明神に参拝し、かつての般舟寺の境内社だと聞き、路地を入った東新天地稲荷大明神は、当地区の老舗が建立したと説明を受けました。辻向いに薄暗いエンゼル小路を抜け、せんまつ小路の路地裏の装いを見て、仏壇通りに並ぶ仏壇店を覗きながら旧街道を進みました。浄土真宗大谷派徳栄寺に立寄り、讃岐国金毘羅宮を勧請した幟町金刀毘羅神社は古来海上交通の守護神でした。廣教寺は城下に疾病が蔓延した際に、高僧南栁上人が本尊の阿弥陀如来に祈願し、その後に薬師如来が現れ厄病を退散し、上人の一字を取り柳町としたとされ、薬師堂にて説明を聞き境内の六地蔵も参拝しました。藩主の参勤交代を見送った真宗本願寺派正光寺を通り、京橋川の雁木群を背に集合写真を撮り京橋の説明を受けました。京橋川河畔の市杵島神社では管絃祭の賑わいを聴き、当初の華やかさに復元された猿猴橋を巡りました。駅前大橋東詰に新たに設置された西国街道案内板の前にて無事散策を終えました。

 

*新天地紅桃花稲荷大明神

浄土宗願海山風航院般舟寺は、天文年間(15321555)毛利家の幕下石井蔵人の菩提寺として、安芸国吉田(現:安芸高田市吉田町)に開基し、竜伝上人が住寺していました。毛利輝元による広島開発後の文禄4(1595)に賀茂郡正力村成福寺より住誉上人を迎え開山とし、慶長4(1599)に現在の広島市中区新天地に堂宇が建立されました。去る昭和20(1945)86日の原子爆弾により悉く消失しましたが、本尊阿弥陀如来は疎開により難を免れ、昭和44(1069)7月現在の西区楠木町に移転し、本堂・庫裡を再建し現在に至っています。また、当山守護神である紅桃花稲荷大明神は、新天地公園内に残し、商売繁盛の守り本尊として信仰を集め、般舟寺の昔のなごりを残しています。(「広島新四国八十八ヶ所霊場」公式サイトより)  紅桃花稲荷大明神は、般舟寺の由緒によると、伏見豊川稲荷の系統と伝え、当山6代の知譽龍潮大僧正が鎮守社として勧請しました。大正9(1920)19代の浄誉霊雄により、新天地商店街の商売繁盛の守護神として旧新天地の般舟寺門前に勧請されました。爾来、三川町圓隆寺「とうかさん」の従兄弟として信仰を集め、新天地界隈の繁栄を見届けました。原爆投下では御神体は疎開されており、罹災を免れ後に現在地に再建されました。

 

*東新天地稲荷神社

この神社は、当地久保田家の遠祖:出雲屋平右衛門が享和年間(18011804)頃、町内守護の神として京都伏見稲荷大社のご分霊を勧請し、邸内神社として奉斎したのが始まりです。以来、子孫相伝えて祭祀し、年毎の初午大祭には、ご町内の皆様のご参拝を賜り盛大な祭典が執り行われてきました。折しも昭和20(1945)86日原子爆弾により灰燼に帰しましたが 昭和33(1958)先代久保田精一深く期すところあって、ご町内の有志と相諮りそのご協力を得て町の再建並びにその繁栄を願い、父祖の志を継ぎ当地に社殿を起こし、以来再び町を挙げて際祀し今日に至っています。 (「神社由来書」より)

 

*中新地通り

明治半ばから大正期にかけて、堀川町と下流川町の間には、新天座を中心に新天地ができました。般舟寺の前面には帝国劇場・新天座・花月館・松月料亭などがあり、新天座の東側に新天地広場がありました。流川通りの東側にかつて鈄屋町の裏通りがあり、江戸時代には生活排水路の跡地に、東新天地通りができました。その中心には天使館や植木広場があり、平松館や湯屋があり繁華な通りができました。戦後に久保田醤油店の向側には久保田の出店があり、その裏に天使館がありました。戦前の繁華な街並を残すため、西の新天地(現:三川町)と東の弥生町(薬研堀以東)の中間にあたり、東新天地一帯が中新地と呼ばれ、戦後に西国街道の仏壇通りから南に現在のような繁華な街路ができました。

東新天地稲荷神社の参道から中新地通り東側には、エンゼル小路・せんまつ小路など、昔風情の飲屋街が続きます。

 

*広島仏壇通り

安芸門徒の土徳に育まれた『広島仏壇』は本格的な生産を始めて、200年以上の歴史を刻んでまいりました。常にその中心にあったのは 産地問屋の集まりである『広島仏壇卸商組合』でした。当組合は 明治20(1887)1月に結成され、120年以上活動を続け現在に至っています。昭和53(1978)には、当組合メンバーの多大なる努力により 経済産業省の指定である 「伝統的工芸品」として認定を受けました。そのため、『広島仏壇』の生産に携わるほとんどの職人さんにも加入してもらい、『広島宗教用具商協同組合』として活動もしております。仏壇造りの工程には七匠(ななしょう)の職人が必要で、木地師・狭間師・須弥壇師・宮殿師・塗師・蒔絵師・金具師です。その中から厳しい認定試験を受け、各職の「伝統工芸士」が選ばれ、優秀な『広島仏壇』を生み出しております。また、伝統工芸師が先生となり『広島仏壇』を後世に伝えるため「児童生徒への伝統的工芸品授業」を毎年広島の小学校を対象に行っております。次に 商部工部が一体となった青年部では 新しい時代に合うお仏壇の実験生産やフラワーフェスティバルに参加し、一般の方に金箔押体験などして『広島仏壇』の広報活動もしています。『広島仏壇』をリードしていくと自負している当組合では、毎月1回定例会を開き後継者育成問題、技術技法の問題など 今後のあり方にについて、毎回熱い議論をしております。どうぞこれからも『広島仏壇』の伝統を受け継ぎ、未来への発展を担う『広島仏壇卸商組合』加盟店に対し、御支援御愛顧賜りますようお願い申し上げます。(「広島仏壇卸商組合」ホームページより)

 

*早稻田山徳栄寺

浄土真宗大谷派のお寺です。往古は備後国三次郡五日市照林坊末寺で西本願寺派のお寺でしたが、寛延3(1750)に東本願寺派に属し、現在地の新町組銀山町に堂宇を建立しました。(『知新集』による) 境内のしだれ桜が美しく、墓地には原爆で折れた首が繋ぎ合わされた地蔵尊墓石もあります。現在は仏壇通り唯一の寺院として法灯を絶やしません。

 

*幟町金刀比羅神社

御際神は大物主命で、本宮は讃岐(香川県)金毘羅宮です。大物主命については『日本書紀』諸伝承の中には大国主命の別名とするものもあります。讃岐・金毘羅宮は海上交通の守り神として信仰されているのは勿論ですが、商売繁盛・良縁結びの御利益を祈られる人も多いです。昔、毛利元就は山間部の吉田郡山(今の安芸高田市)に広大な城を築いていましたが、その孫、輝元は平野部に城を築く為天正6年(1588)に広島城の築城を始め、完工と共に城下の金刀比羅神社も移設されました。毛利氏は厳島合戦や太田川水運等で村上水軍との縁が濃く、その村上水軍が崇める金刀比羅神社を祀って隆盛したと言われています。広島城以下で祀られてから430年余の間、地域の歴代の人達で鎮守お祀りしておりますが、お陰様で平穏繁盛を賜っております。(「神社案内板」より)

 

*廣教寺

正式には一法山清浄院廣敎寺といい、その昔、寛文の頃に安芸の城下町に原因不明の疫病が流行し老若貴賤の区別無く得態の知れぬ病魔に倒れ、丁度その頃に廣教寺には増譽南柳上人という高僧が居られました。上人は病魔に恐れおののく人を痛く哀れみ日頃念持する廣教寺の本尊阿弥陀如来に一七日の祈願をこめられました。その満願の朝に、上人の霊眼に映じたのは、西方極楽世界の阿弥陀如来ならず、東方浄瑠璃世界の薬師如来の御姿でありました。薬師如来の霊像を安置して三七日の大祈願会を奉修致しますと不思議やさしも、猖獗(しょうけつ)を極めた疫病も漸次影をひそめて遂に元の平安に立返りました。(注 一七日:7日・1週間/三七日:21日・3週間/猖獗:勢い盛んにはびこること)

(「廣教寺」ホームページより) 阿弥陀如来が、いつ頃から奉られたのか正確な文書は無いものの、扁額の内容から推察するに、廣教寺の第三世増譽南柳上人の頃と思われる。この額は戦後、先代住職が言い伝えを基に作ったものである。寛文年間(16611673)に広島城下に疾病が蔓延し、廣慶教寺の高僧であった南柳上人が、本尊の阿弥陀如来に祈願したところ、薬師如来が現れ厄病神は退散しました。その後二尊が共に本尊となり、旧町名は南柳上人の一字を取り、「柳町」となったそうです。山門前の道筋が西国街道であった時期もありました。(『広島城下大絵図』より)

 

*廣教寺の六地蔵縁起

一切の衆生が善悪に業によって趣く六つの迷界を六道と言う。釈迦如来の滅後56億7千万年の後、この世に出現して済度される御仏が弥勒菩薩で、この二佛の中間の世に六道の苦しみを救っていられる菩薩が地蔵菩薩である。菩薩が六地蔵だと信仰される地蔵信仰は、平安後期から貴族の間で広まり、一般の間に広まったのは江戸時代からだと言う。尊容は若い僧形で衆生に代わって苦しみを受けてくださると言う地蔵尊の悲願に人々は親しみ、その信仰は広く今日に至るも跡を断たぬのであります。(「境内説明碑」より)

 

*正光寺

浄土真宗本願寺派常照山正光寺の開基は、僧了知(毛利家の家臣何某嶺綱と言い、元亀・天正の頃に織田信長が10余年に及ぶ摂津国石山本願寺と戦っていた時、本願寺より毛利氏に救いを求めた。その時嶺綱加勢の一人として軍功があった正綱とも言われたが、氏姓詳らかでない。元和8(1622)正綱の「正」の字を取り正光寺と号すと「当山過去帳」に記述あり。嶺綱は高田郡吉田村に草庵を結び法名を了知とし、毛利氏の広島開発の時当地に来て、東西40間、南北30間の寺地を賜ったが、福島正則の時寺地が狭く改められた。(『知新集』より)

 

*市杵島神社

橋本町の京橋川河畔に鎮座し、厳島神社から勧請され 神社額には「市杵島姫明神」とあります。祭神は市杵島姫命、通称明神さんと呼ばれ、管絃祭の折には京橋川を御座船はあがり 京橋川両岸や京橋には観客の人並が多いつくし、高提灯が立つ周辺は賑やかであったそうです。この地一帯は元来廣教寺の境内で、鎮守社として祭祀されていた時代が長く、被爆後の再開発で境内は縮小し、現在では神仏分離のため、当社は単独の神社として地域住民により、大切に奉賛されています。かつて当地は「明神の浜」とも呼ばれ、「明神座」「とっくり小路」「明神市場」があり、城下東端の繁華な街並でした。明神座は大正期には新天地に移され、飲屋街のとっくり小路にはやがて明神市場ができ、幟町金刀比羅神社を市神として祀られたものの原爆投下により灰燼に帰し、橋本町界隈は戦後の都市再開発により一新されました。

 

*京橋川雁木群

広島市内を流れる太田川の川辺には、船着場として利用される雁木と言われる階段が造られ、その数は300個所以上と言われています。京橋川の雁木群は、「水の都ひろしま」を象徴する我が国最大規模の河川舟運用の雁木群で、特に京橋から栄橋の間には様々な造りの雁木が残っています。その形状を見ると、人が通れる程度の幅のものがほとんどで、大規模な河川港と言うよりは個人用とみられるものが多く、まさに川が生活に欠かせない存在であったことが伺えます。このように、人々の生活を支えてきた遺産として、また、今日の歴史的な水辺空間を演出していることが評価され、土木学会から「選奨土木遺産」に認定されました。(「当地説明版」より)

 

*京橋

毛利輝元が広島城を築いた16世紀末頃に架けられた橋。当時は幅約5mの木造で、城下から京都に向かう道の出発点にあるため「京橋」と名付けられました。現在の橋は、昭和2年(1927)に架け替えられたもので、原子爆弾の惨禍に耐え、被爆者の避難や救援の通り道になり、多くの人の命を救いました。静かにたたずむ京橋には、広島の発展の歴史が刻まれています。(「現地説明版」より)

 

*猿猴橋

猿猴橋は、毛利輝元が広島城築城を始めた天正17(1589)頃に木橋として架設され、大正15(1926)に現在のコンクリート橋に架け替えられました。その際電飾や透かし彫り等華麗な装飾が施されていましたが、昭和18(1943)戦時中の金属資源不測の為発せられた金属回収令により、これらの装飾品が全て供出され、医師の欄干と石橋らに取替えられました。昭和20(1945)原子爆弾投下では、欄干の一部が破損する被害を受けたものの、構造的な被害はわずかに留まり、被災者の避難や救護活動に使われ、多くの命を繋ぐ役割を担いました。平成27(2015)被爆70周年の節目を迎えた広島市は、記念事業として猿猴橋の復元に取り組み、広島の復興を見届けてきた猿猴橋の一部を復元し、後世に伝えようとする地元の取組と連携して、平成28(2016)架け替え当時の姿へ復元しました。(「現地案内板」より)

 

*猿猴橋水管橋

牛田浄水場から宇品港へ水道水を送るため、明治30(1897)7月に完成し、翌31(1898)8月から主要排水管として使用されてきました。昭和20(1945)86日の原子爆弾の爆風にも耐え、焼け野原となった市内に水を送り届ました。また、戦後も大型台風で市内に被害が出る中、大きな被害を受けず、その役割を果たし,不断水を守り続けてきました。100年以上にわたり活躍した水道橋ですが、平成19(2007)に老朽化のためその役割を終え、被爆建造物として歴史を後世に伝えるため、その一部をモニュメントとして広島市水道資料館に保存しています。(「現地案内版」より)

 

*「西国街道」案内板

昨日の話になってしまいましたが、広島駅前大橋のたもとに「西国街道」の案内板が設置されました!広島東ロータリークラブ様のご協力により完成し、除幕式には松井市長もお見えになられました案内板の上部は、隣に架かる猿猴橋をモチーフに立体的な加工がなされており、とっても素敵です。(「まちなか西国街道推進協議会」ホームページより)


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5月活動(定例会)
○ひろしま歴史街道散策くらぶ:5月定例会報告

1.開催日時 令和1年5月16日(木)

2.講演会場 広島市中央公民館  10:001150 

テーマ:「広島藩領今昔物語」②城下建設と藩領整備

 シリーズ2回目の本講座は、日本最大の平城:広島城の築城と城下建設の経緯と芸備両国に及ぶ広島藩領の確定と整備について解説いただきました。

 城地選定で見立山と言われる明星院山(二葉山)・新山(牛田神田山)・己斐松山(旭山神社)の検分状況と五箇村への築城の経緯や、縄張には聚楽第を範とし築城の名手:黒田如水の関与を解説されました。

 築城には秀吉の朝鮮出兵に伴い前線基地の名護屋城と海路で結ぶ中継基地や、浅瀬への築城のための島普請に相当の出費を要し、毛利氏の弱体化を図ったとの話もあったとされます。

 天正19(1591)輝元は入城し完成は慶長4(1599)に落成を見、広島の名は大江広元の広と築城に尽力した福島大和守の」を併せて名付けたと伝わります。毛利両川は元就により統治された軍事や政治組織の通称で、毛利氏本宗と吉川・小早川両家を併せて言われるが、豊臣政権成立後に懐柔政策で盟約解体へ向かいました。

 広島城下が正式に整備されたのは福島時代で広大な惣構となり、改易後に入城した浅野氏は新田開発に努め、現在も拡がる干拓の基礎を創り、藩政の経済発展に力を注ぎました。

 芸備両国の国境変動や村数・人口・石高等を一覧表にまとめ詳細に説明頂き、広島藩政の実態と変遷がよく理解できました。

3.散策会:13301625 「西国街道と城下新町組」 天候:晴

 好天に恵まれ福屋八丁堀店前に集合し、西国街道を東に城下新町組を旧町名の町筋を散策しました。

 

 綺麗になった新天地紅桃花稲荷大明神に参拝し、かつての般舟寺の境内社だと聞き、路地を入った東新天地稲荷大明神は、当地区の老舗が建立したと説明を受けました。辻向いに薄暗いエンゼル小路を抜けせんまつ小路の路地裏の装いを見て、仏壇通りに並ぶ仏壇店を覗きながら旧街道を進みました。


 真宗大谷派徳栄寺に立寄り、讃岐国金毘羅宮を勧請した幟町金刀毘羅神社は古来海上交通の守護神です。廣教寺は城下に疾病が蔓延した際に、高僧南栁上人が本尊の阿弥陀如来に祈願し、薬師如来が現れ厄病を退散し、上人の一字を取り柳町としたとされ、薬師堂にて説明を聞き境内の六地蔵も参拝しました。

 

 藩主の参勤交代を見送った真宗本願寺派正光寺を通り、京橋川の雁木群を背に集合写真を撮り京橋の説明を受けました。市杵島神社では管絃祭の賑わいを聴き、当初の華やかさに復元された猿猴橋を巡り、新たに設置された西国街道案内板の前にて無事散策を終えました。

 

2019.05.16・散策ルートはこちらから〇散策ルート


案内人:佐々木卓也指南役

配布資料

・「広島藩領今昔物語」②城下建設と藩領整備 3枚組(6頁)

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